ぺやんすと麻婆豆腐
ぺやんすは生まれてこのかた麻婆豆腐しか食べたことがありません。

 ご存知のとおり、麻婆豆腐は豆腐やひき肉でできている中華料理です。
 肉も豆も穀物も、全ての材料を粉化・ミンチ化し、それらを組み合わせて作る想像力の結晶です。
 原料を分化不能なところまで分解しさらにそれを再構築して作ることが理由で、
 フランスで流行したこともあります。

神様は、ぺやんすを見てとても憐れに感じたのです。
ぺやんすに麻婆豆腐の原料である大豆の花をみせてあげたいとお思いになりました。

 ご存知のとおり、大豆は節分の日からおよそ90日後、乾いた土の上で芽を出し月の光を浴びて大木になります。
 花や実をつけるようになるまでに8年ほどかかるのですが、
 実を成らす前に咲く花がとても美しいのです。
 赤い花。
 人が少年期にのみ見ることのできる夕焼けは、大豆の花です。
 ちなみに、大豆の実を固めたものが豆腐です。

神様はぺやんすにその花を。
いつも食している麻婆豆腐の元々の姿を。
見せてあげたいとお思いになったのです。

「ぺやんすや。おお。畑を耕し生きるぺやんすや」
神様がぺやんすを呼ばれると、
「へえ。神様」
と、ぺやんす。

「お前の営みは今、昇華し私からの声となる。聞こえるか。ぺやんす」
「へえ」

「麻婆豆腐ばかり食べている不憫なお前。お前に花を見せよう。お前は花を知っているか?」
「はい。ユリガオが好きです」
「そうか。ちゃんと学校には行っているのか」
「はい。社会科の地理が好きです。英語はちょっと苦手で、、、、」
「そうかそうか。まあ、子供のころはめいいっぱい遊ぶのが一番の仕事だからな。英語は必要なときに勉強すればいい」


おわり
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「始まらない物語」
聞いた話だが、物語について。

まず、人間は物語がないと生きられないらしい。
これは先天的なものなのか、社会の中で生きる中で身につく後天的な習慣なのかはわからないけど、
自分はこんなこんなで、こうこうなっていくんだ、ってのが無いことに人は耐えられない。
世代、性格、嗜好、趣味、特技で自分をくくって、それで社会の中でどう振舞うか、を説明せざるをえない。ということで、

人間には物語が必要。

これ前提。

んで、物語の構造ってのは、

   「今、ココ」で足りないものを自覚する
 → 「今、ココ」ではないところに足りないものを探しにいく
 → 「何か」を見つける・気づく
 → 「今、ココ」へ戻ってきて、「何か」によって「今、ココ」が変容する。

というものになっているそう。大体はね。
足りないものがないとね、始まらないの。物語って。

物語の始まりは欠落から。


んでさあ。
俺さあ。こっから俺の話ね。
始まらないのよ。俺の物語。いまだに。
それは俺に足りないものが無いからなんだな。


だってさあ。
世界って完璧じゃね?
過不足無く柔軟じゃないか。
別に満足してるわけでもなく。かといって苦痛も不満もなく。
要らないもの、無くねえ?
足りないもの、無くねえ?



“俺の両腕いまだ勝利なく。されどこれという敗北も無く uh.yeah! 豊かな国の流浪の民よ”





さて考える。
人間には物語が必要なのだ。俺は人間でありたい。
人間であるために「今、ココ」から物語を始めなければならない。
「今、ココ」に足りないものは何か。
それは「始まらない物語」だ。

ああ、
「始まらない物語」を人間としての欠落として感得して、
それを探しに行く冒険、という物語を無理矢理始めてみればすわりがいいなあ。


というわけで、


「物語が始まらない」という物語を始めるしかない



最近はそんな気分で無理矢理生きてる。
欠けているものが無いという欠損。
それを探しにここではないどこかまで。


何を見ても完璧で。
どこでも福音が鳴ってて。
善も知も愛も、満足でなくとも不足ない世界から、
どこへ行こうかね。

やあ。
2月が始まった!
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